<本づくりの江戸しぐさ>
江戸の知恵に驚愕
この本は二百年まえ、江戸の人たちが本を作ったのと、まったく同じ感覚でつくりました。その、どこかが、現代・将来に生かせるなら、利用してください。
本は、売れるものでなくてはならない。
これが、鉄則だったそうです。売れなくても、良い本がある?!その通りですが、そういう内容のものは、江戸では、本にはしなかったそうです。
紙も製本の手間もムダになるという考え方のようです。つまり、立派な内容だが売れないものは、著者のノートに書きとめておけば良い。弟子が回し読みをすればよい。ノートがボロボロになるまえに、つぎの弟子が写本すればよい。
売れない内容のものも、30年たったら一般が理解するようになってから本にすればよい。そういう考え方だったそうです。
売れるか売れないか、見きわめる。
売れるか、売れないかを見きわめるのが江戸の講だったそうです。講中は老若男女・各職業・各階層の集まりです。
内容の一部を見せたり、あるいは「こんな本が欲しい」という声を聞いて、だれが、いつ、どんな内容・どんな程度の本を書くかを決めたそうです。
内容の検討と同時に、本の大きさや値段を考えたそうです。小さな本にするか、大きな版にするか、安い本を出すか、高い値段の本をつくるか。
小さい本にしても、豆本にするか、もっと小さいケシ本にするか。
いまふうに言ったら「ツカ見本」を作り、講中に見せて意見を聞いたりしたそうです。田舎者には大きい版、江戸者には小さい版が売れるといわれたそうですが、この本も現代の講中のサンプリング調査によって、版のサイズが決まりました。小さい版を主張されたのは3人だけでしたので、結局、この大きさの本になりました。
紙質・ページ数・重さを考える。
江戸時代には、紙代が高かったので、本に使う紙もケチったというのは、単純すぎる考え方のようです。和紙は木材から作るので、一本の木の命を断つことと、一冊の本を作ることと、どちらが大切か? 価値のない内容の本に貴重な紙を使うのは、木にも紙漉(す)き職人にも申しわけないという考え方が根底にあったそうです。
草紙物には粗末な紙を使ったようです。いまふうに言ったら、酸化したり炭化して、すぐに茶色っぽく、ボロボロになってしまうような種類の紙でしょう。読み捨てだから、それで十分という発想のようです。
昔は「袋とじ」が主流だったようですが、ページ数や本の重さも必要最小限に仕上げられたそうですが、本を運搬する人の苦労を察して、できるだけ軽くなるように気を配ったそうです。
表紙・装幀・お目どまり
江戸の本は、中身だけが売られ、買った人(読者)が自分で表紙を付けたそうです。そのほうが安かったのでしょう。
お金のある人は、帖職人とか掛物師という人にたのんで、好みの表紙を付けたそうです。本の内容にふさわしい装(よそお)いを訂(さだ)めるというので、「装訂」という言葉が生まれたそうですが、明治以後は印刷・製本技術が導入され、安く大量の本ができるようになったので、この本も江戸の人たちが見たらきっとビックリなさるほどの早さと手間で、できてしまったようです。
手ざわり・見ざわりのこと
見触(みざわり)とは、目障(めざわり)ではありません。本と取ったとき最初に目に飛び込んでくるページとか文字のことです。
新しい本は、開くと普通の中ほどのページが自然に出てきます。最初から見ようとすると、紙の弾性でページがもどってしまいます。それを無理に開こうとすると、紙を押し付けて本をムリに開けなくてはなりません。
まだ、買わない本をムリに開くのは、本を中古物にすることです。それは本屋さんに対する江戸しぐさ違反です。現代式に言ったらマナーの悪い買い手になります。それも買うならいいけど立ち読みでは狼藉(ろうぜき)です。
と言って、気に入らない本を買う人はいません。本は1ページでも気に入ったら買うというのが江戸しぐさのようです。そこで、短時間に「これだ」という内容を、一番見やすい「位置」に置いたそうです。それを「ページ立て」と呼んだようです。
ページ立てを考えて、読者の利を図るのが編集の江戸しぐさ(編集者のエチケット)だそうですね。
読者のかたから見れば、それが「見触り」と言われるもののようです。そこで、この本も、お手に取ってごらんになって、手っ取り早く概略が判るような記事を、本の真中あたりに持ってきました。
中級・上級の方がご覧になったら、別の項を見触りにしたほうが良いと言われるかもしれませんが、初級では「これが良い」という講中の意見に従ってページ立てをしたつもりです。
この本の「見触り」が良いといわれたらうれしいですが、すれに増して、一冊の本を作るにもここまで気をつかい、知恵をしぼった江戸の人々に驚愕したのは私一人ではなかったことを知っていただけたら幸せです。
江戸しぐさを掘り起こせば、商売にも生かせそうなアイデアが、まだまだ山ほどありそうです。
江戸の良さを見なおす会
和城伊勢
芝三光師・残し文から
敲き台にしてください!
江戸について、大きな誤解をされているようでございますよ。
第一期の誤解は、明治・大正・昭和の戦前までの誤解でございます。徳川家康は狸おやじで、江戸時代は悪い時代というような認識のされかたでございましたね。
第二期の誤解は、前後に出された社会科の本に代表される誤解でございます。封建制で、男社会と仇(あだ)討ち思想の時代という認識のされかたでございます。
いずれも「まちがいと言えばウソになる」というような言いかたはいたしません。私は勇気を持って「いずれも間違い」と申しあげるものでございます。
第一期の誤解の結果は、江戸時代と徳川家康を罵(ののし)る浅墓な考え方を生んだようでございますし、第二期の誤認は、男女同権と同質・同格などを取り違えた人たちや、「復讐(ふくしゅう)思想に徹した時代であるから、江戸の良さを見直すなどは、とんでもない」という単純な考え方を多くの人たちに定着させたように思うのでございます。
もう一つ、忘れてはなりませんのは、「江戸の歴史には、勝者のそれと敗者の言いぶんの二つある」という点でございます。
現在、図書館などで目にとまる書籍のうち、「江戸」と名の付く書物は1千種を超えているようでございます。が、残念ながら「勝者側から見た江戸」が大部分のように私には思えるのでございます。
その証拠に、「日本最初の(同時に世界最初かもしれませんが)町名変更の反対運動の狼煙(のろし)を上げたのは、「江戸」という由緒ある都市名を東(えびす)の京(けい)などという名称に変えられた旧江戸側の民衆であった」というような記述の本には、まだ出会わないからでございます。
私は、それらを掘り起こして「どうこうしよう」と申しあげているのではございません。温故知新。古きを求めて新しきを知ることに意義を見出したいと申しているだけでございます。
この江戸しぐさも、その一つでございます。江戸方の町衆だけに「しぐさ」として伝わっていたものでございますので、江戸方の者が死に絶えれば消えてしまうのは当然でございましょう。私には、それが残念でございますよ。
私の子どものころ、「江戸しぐさ」という言葉は年中耳にしたものでございます。半世紀まえまでは「江戸しぐさ」が生きておりました。
どうか、江戸しぐさのお話でも、一度ご家族みなさまでなさっていただきたいものでございます。そうなされましたならば、何か新しい人間関係が生まれるようにおもうのでございます。
日本も捨てたものではございません。日本のどこかには、私どもと同様のお考えの方々も多数おいでになると思っております。
私の忘れている江戸しぐさもあると存じます。こんな「しぐさ」もあったというようなお話を、会宛にどうかお聞かせください。
芝拝